かの高きアルプスを頭上に抱き
ターコイズブルーのWalensee(ヴァレン湖)を足下に従え
Paxmal(パックスマル)は静かにたたずむ。ひとりの男のライフワークの結晶として。
Karl Bickel(カール・ビッケル)は25年の歳月と私財を投じ、彼の見出したpeace(平和/平穏)を表現しようとした。ご存知のとおり当時は世界中がpeaceとは真逆に突き進んでいる時代だった。1924年から1945年にかけKarl Bickel が自分で設計し建設し、この平和のモニュメント、この調和の聖堂ができあがった。じつはここは儀式のためにあるのではない。礼拝のためでもなければ、駆け込み寺というわけでもない。では何のための場所なのか。ここは人々が集い、静かに座り、自らを省み、自分たちの人生をじっくりと考え直すための場所なのだ。いったいわたしはどんな成長のステージを体験してここまでやってきたのか。私生活においてどんなステージを経てきたのか、ということをじっくり見つめ直すための場所なのだ。Karl Bickel は人間にとってもっとも重要なこの問いかけに対する回答を、結核の療養中に考え抜いたようである。ちなみに彼はここの高地で、当時は死んで当たり前と思われていた結核から回復したのであった。考えに考えを重ね、彼は直観的な理解に至ったように見える。つまり私たちひとりひとりが旅の途中にいるということ。その旅路は個人的な欲望からはじまり、行き着く先は完全/完璧な人間の精神の解放である、という理解に。
上掲の写真に書かれている言葉を日本語にすると、人生のサイクル、男、女、恋人、抱擁、新しい人生という概念、新しい赤ちゃん、となる。彼の作品のひとつのテーマは「自分自身のために求める、よくある欲望、普通の幸せ」である。一方で、彼の作品のもうひとつのテーマは全く違ったものであり「人間精神が立ち上がろうとする瞬間の情熱。戦争を選ばない社会を創り上げる情熱。人間の精神が目覚めようとする情熱」とでも言えば良いだろうか。ここPaxmalでは、右側の壁に人間の尊厳が立ち上がろうとする姿が集められている。
この写真を見て、少しのあいだご自身がベンチに座っていると想像してみてほしい。左の壁にある数々の作品に目をやると、そこには個人的な愛や家族について描かれているのが見える。人生はまさにその通りだなと思う。わたし自身いろいろ思い返してみると、照れ臭いものでもあり、また厄介なときだってあった。
次に右の壁にある作品に目をやると、人間の精神に目覚めている人生、クリエイティブかつ思いやりあふれる社会の一員になろうとしている人生が描かれているのが眼に入ってくる。
ここに座っていると嫌でも目にすることになるのだ。つまり自我と自分の幸せにとらわれがんじがらめになっている人生と、人々の幸せを想うクリエイティブでオープンでボーダレスな人生が、あまりにも違うということを。ここに座り、右と左の壁を眺めていると、まるで選択肢の間に座っているような気になってくる。じつはその選択肢はずっと私たちのすぐそばにあり続けたのだ。くり返しくり返し同じ体験をし続けるのか。それとも人間的/精神的成長を遂げる世界に入るのか。あるいはそれは選択肢でさえないのか。単にわたしたち全員が体験するプロセスにすぎないのか。あなたもわたしも今日もまた旅路を一歩一歩進んでいるということだろうか。Karl Bickel はスイスの郵政局の切手デザイナーであった。その後でこの聖堂のデザイナーになった。
彼がデザインした切手の大きさと、彼が設計した神殿の大きさはまるで違う。彼は楽観主義者であった:歴史上もっとも悲惨な時代においてさえも。彼は人々に全幅の信頼を置いていた:自らを省み、そして攻撃的に領土を奪い合うことをやめるであろうと。彼は選んだ:静かな思索の地を(あるいは、ここの土地が彼を選んだのかもしれない!)。この偉大なる自然の美しさに包まれた土地で、Karl Bickel はわれわれ全員にとって重要なことを見出し、人生と私財を捧げ、全人類に向かって見出したものを伝えようとしたのだ。Evi(エヴィ)とUeli(ウーリ)、ヒロミ、わたしの4人で「平和の一碗の茶を四方に」捧げた。深い感謝の気持ちに包まれながら。Bickel についてわたしが知っているのはこれだけだ。あなたはもっと他にも知っているのかもしれない。
いずれにせよ、ここは「平和の一碗」を捧げるのに完璧な場所である。
スイス、それは……
『雌牛はみんな幸せな』ところ。
この8月、もう一度Paxmalに行くつもりにしている。よろしければご一緒にいかが?