Dachau ダッハウ、ドイツ

Dachau(ダッハウ)に関しては、私から語るべきことはそれ程多くはない。全ては既に語り尽くされているからだ。事実は全てインターネット上にあるし、私たちは既に全てを知っている。学びきっているとさえ言える。心に焼き付いているからだ。願くば、DNAにまで。「人類の歴史に一つの黒き染みを残した」ことは、この土地を人類の悲劇の極みとした。とても信じられない事だが、1960年代、私はDachauからたった2時間の所にあるBlaubeuren(ブラウボイレン)に住んでいながら、Dachauに関する事など知らなかったから、訪れることもなかった。強制収容所、という物が初めて現れたのはDachauであり、それを皮切りとして、たくさんの強制収容所が建てられたのだから、Dachauは私たちにとって重要な意味を持つ。Dachau強制収容所の設計者であり最初の所長であるその人がその後、たくさんの国に建設される全強制収容所の総監となった。Dachauは他の強制収容所の手本となった。しかもそれは完璧に成功し、完璧に機能した。それは、違う国、違う人種、違う政治、宗教、社会、経済、性の考え方からは"好まれないもの"だった。おそらく、「違う」貴方からも、「好まれない」私からも。貴方に尋ねたい。全部でいくつの強制収容所があったのか?100?200?400?750?1000?1500?いくつの国にあったのか?おそらく貴方の国にも?



私の国にも?そう、あった。Lemon Creek Japanese Concentration Camp(レモン クリーク日系人強制収容所)は私が育った家からたった10分の所にあった。黒いインクの最初の一滴は地図上のDachauにまず落ちた。そこから、たくさんの、本当にたくさんの強制収容所が繁殖していった。



今年の8月に"KOSMOS"(コスモス)はDachauへ行く。大きな悲しみと共に、平和へと導く心で、ただただ「平和の一碗を四方に」捧げようと思う。貴方にも是非参加して欲しい。どこでだって構わない。心の中でも、台所でも、庭でも、修行の最中でも。共に献じて欲しい。もしくは、8月28日 日曜の朝10時にDachau強制収容所の"Arbeit macht Frei"(働けば自由になる)と記された門の前で、私たちと一緒に献じて欲しい。



最後に、遠い昔の短い話を一つ紹介したい。ドイツのある野外集会場で、他の国からやってきた男性が、私がなぜそれ程までに熱心にドイツ語を話し、近代史の勉強をしているのかと尋ねてきた。私の答えを聞いてこう言った。私の答えが愚かだったのだろう。「君は要注意人物だな。たくさんの人がこれらの強制収容所で囚人に対してむごいことをした。それはナチスドイツの人間に限ったことではない。」ナチス領主のご機嫌をとって、彼の知り合いたちが多めの食糧やより良い住環境を享受していたことを彼は教えてくれた。新たに入って来た囚人たちを拷問し、死に追い込むための新たな設計をすることで、強制収容所の職員を接待する機会を得ることが出来たのだ。彼の地元の人のほとんどがとてもそんな事は出来なかったが、少しの人達は、出来た。彼らのユニークな拷問の一例はこうだ。大きな木の周りにガラスの破片を撒き散らす。そして囚人達に木の周りを走るよう強いる。だから、囚人達は走って、走って、走り続ける。バタリと倒れ込む。それでも、手でも、膝でも、腹部でも、何でもいいから動かせる限り動き続けろと強いられる。これ以上動けなくるなるまでずっと。出血多量で死ぬまでずっと。「だから気をつけろ」とその男性は私に言った。「俺は全部見てきたんだ。地元の奴らがそういうことやってたのも見てたし、ビールとかソーセージとか良いベッドとか貰ってたのも見てた。だから気をつけろ。お前だってそういうこと、やりかねないんだ。」このように私は聞いた。そして、それは真実だ。私だって、やりかねない。ここが彼の話の怖いところ。私だって、やりかねないのだ。