TIBET チベット

これは"KOSMOS"(コスモス)が偉大なる自然の美しさを有する土地、Lhasa(ラサ)の山岳へ行くという、とてもシンプルな話。地、それは大麦畑。水、それはthe Lake Yamdrok(ヤムドゥク湖)。火、それは世界の高き所に住む人々のその精神。風、それは四方のあらゆる生き物に善き存在たれとメッセージを送る、風の馬(仏法を乗せた馬)を施した旗であるLungta(ルンタ)のはためき。空、それはこの様な高き山々がある、この信じ難き場所そのもの。そう。ここにはちゃんとチベット五大要素(地、水、火、風、空)の全てが備わっている。





この地で、山本さんはある文字をチベットの土の上に指で記した。「和」である。




聖徳太子が604年に作成した十七条憲法は「和を以って尊しをなす」から始まるし、また、当時彼が納めていた国の名も倭(和)国といった。



茶室において、なぜ私たちが茶道を学ぶのか、どうすれば正しく学べるのかを教えてくれる言葉「和敬清寂」(調和、尊重、清浄、静けさ)もまた「和」から始まる。



彼女はその高野に自生する花たちをたむけた。そして、平和の一碗を四方に捧げた。



その後、彼女は街へと下りて、ヌードル屋で食事をとり、そこでチベットの地元の人たちに抹茶を振舞った。人びとは写真を撮って欲しいなどとは言わなかった。中国人領主をおそれて。全ての道には数千の監視カメラがあり、軍隊はこの地で力を持つのが誰であるかを明示するように行進し、プロパガンダのポスターがあらゆる場所に貼られていたと、山本さんは目の当たりにした社会の恐怖について語ってくれた。それでも、彼女がより多く語ってくれたのはチベットの人々の笑顔や明るい表情についてだった。彼らは菩薩の思いやりの精神を確信しているのだ。だが彼らも今では人口のたった30%となってしまった。




笑顔の青年が"KOSMOS"(コスモス)から抹茶を飲む写真もまた、紹介できればと思う。いつの日か、山本さんが送ってくれるだろう。山本さんと彼女の夫には本当に感謝している。彼らは雪国であるチベットの高地に"KOSMOS"(コスモス)を運んでくれた。私の先生は、この地で生まれ、この地で学び、修行し、1959年にこの地から亡命することを余儀なくされた。20世紀において幸運を得た人は沢山いるであろうが、私がそのうちの一人になれたのは、彼と出会えたからだ。彼との学びは私の人類への恩義をとても大きなものにしている。私は祈る。「生きとし生けるものにとっての一勇者」としての生活をいつも送り、その姿を全ての人々に示せるように。山本さんの赤ちゃんが恐怖から解放された世界の中で成長出来るように。そして、彼と同じ世代の子供たちが、勇気を携えた人々の足取りを辿れるように。ともに、常に、10年先の世代のことを考えよう。

ALCALA アルカラ、スペイン

Alcala(アルカラ)はキリスト教ヨーロッパで初めて大学都市として設計された、決して通商、商業、産業、防衛又は宗教を目的とした街ではない。


スペインにおけるムーア人の非常に高いレベルの文化に影響を受け、Alcalaは学術都市のモデルとなり、ヨーロッパの他の地域、さらにはスペイン帝国の植民地―メキシコシティ、テキサス、サンディエゴの大学街―にとってさえモデルであり続けた。



ムーア人がQueen Isabella(イサべラ女王)とKing Fersinando(フェルディナンド王)によってスペインから追放された後の1499年にAlcalaは設立された。それはColumbus(コロンブス)が彼らの援助を受け、西からインドへ向かって航海した時でもある。彼は西へと航行したがインドへはたどり着けなかった。彼が想い描いていたのはただ新しい世界の美しさだけであった。彼はこれらの土地がやがて植民地の争いの場になる事や文化の破滅が起る事など思ってもいなかった。しかしそれと同時にAlcalaは聖徳太子が築いた法隆寺と同様に学習にとって偉大な中心の場となった。それは特に言語の場として、そして素晴らしい子孫達の為に。


Don Quixote and Sacho panza and Cervantes(ドンキホーテとサンチョパンサとセルバンテス)

ここは人間によって創られた美しい場所、Mariko(まりこ)とPaz(パズ)は一碗のお茶を捧げた。"Jardines de la paz(平和の庭)"はAlcalaの古い町のなかにある、まりこさんは言っている・・・「ここは12~15世紀までムーア人、ユダヤ人そしてキリスト教徒が一緒に暮らしていた。その後追放が起こってしまったのですけれども。


Pazさんと私は平和への一碗を母なる大地へと、そしてPazと刻まれた石碑に捧げました」


「Jardines de la paz」はまた、コロンブスがイサべラ女王、フェルディナンド王と出会い、彼が想い描いていたインドへの航海の為に彼らに援助を頼んだ場所に非常に近い所でもある。

NOTRE DAME ノートルダム大聖堂

近年NOTRE DAME(ノートルダム大聖堂)は戦争の焼け跡や工業汚染からまるで赤ちゃんのように磨かれきれいにされました。

そして今私達の目の前に800年前と同じような輝きを持って存在しています。

300年以上もの間パリの人々がNOTRE DAMEを眺めた時に感じる喜びを想像してみて下さい。


家具職人、石職人、測量者、デザイナー、車大工、金・銀・黒・銅細工師
労働者、料理人、守衛、トラックの運転手。
男性・女性、子供、馬や牛達。


一体どれだけ多くの世代がこの人間の美、神聖な美であるNOTRE DAMEに命を捧げてきたのであろうか!

彼女(大聖堂)は疑いのない程美しい。
小説の主人公のように栄光のある唯一の建築物に思われる。
私は去年の冬の寒い昼夜を問わず読むことを楽しんだであろう。
そして私はディズニーのアニメーションかそれについて多くの人々が名前しか知らないのだろうかと思った。
それには素敵なストーリーがあり、
疑う余地がない程に美しいものなのに!


外側から、内側から、東西南北から、
雨の中でも、ベンチに座りながら、
フロアに横になりながら
繊細で優雅なゴシック調のステンドグラスを見上げることができる。


反響音、音楽、祈り、ドアの開閉などの音を聞きなさい
神聖な場所に近づくには足音に気をつけましょう
またカメラの撮影音にも注意がいるでしょう


しかし特に光と影のゆらめきは壁の上を踊っているようだ。
想像してみて下さい。
何百年以上もの間フランスとヨーロッパを行ったりきたりしている巡礼者達は道中に靴やブーツを脱ぎ捨てている。
使い古したワゴン、荷馬車、われたボトル、挫折した心が一体どれほどあるであろう。
彼らはただNOTRE DAMEの荘厳さを彼ら自身で見たかったのだ!


そしてこれらは全て死の保証の兆しの前であった。
昔の聖職者はこの世界で安全に子供を授かりたい多くの女性達やタンポポなど人々の苦しみを開放する他の植物の育て方を知っている人々、基本的によい世界を直視しようとする人々に対して火を灯し光の方へ導いていた。
そこには一体どれだけ多くの違った理由があるであろう。
一体どれだけ多くの女性たちがロウソクに火を灯したのであろう。
ヨーロッパではおそらく5百万人ぐらいいると思う。
例えばJean D'Arc(ジャンヌダルク)。
それ程昔の話しではない。
また
Victor Hugo(ヴィクトル・ユゴー)の話しを見てみよう
Quosimodo(カジモド)はベルタワーから降りて
Esmeralda(エスメラルダ)を絞首刑執行人から救い出してノートルダム大聖堂の中の安全な場所に連れだした。
そして群衆のブーイングは長く約束されていた荘厳さを奪ったのである。


しかし私にとってNOTRE DAMEに訪れた本当の理由は世界に平和の茶を捧げたいからである。
ゆきこ、ゆうこ、まりこ、ゆきな、まきこ、ゆりなど影響を与えた人々と多くの若い人々と出会えたのも京都にあるNOTRE DAME(ノートルダム)大学だ。
私達は共に日本文化について何が美しく造形が深いのかを学ぶことができた。
大学の総長を初客に迎えた、NOTRE DAME大学での茶室開きもまた特別な事だ。
このような出来事は感謝されなけばならないし、壮大な出来事として記念されなければならない。


そしてそれは偉大な事として記された。
Pascalと子供達と一緒にパリに住んているゆうこさんは
NOTRE DAME大学での生徒さんであった。
私達は一緒に四方(東西南北)に向かって平和のお茶を感謝の印として捧げた。


この大聖堂の神聖な美に対して
人類の偉大な苦しみの場所や新鮮さ新しさを取り戻した今、
大聖堂は決して再び人々が人々を殺したり子供たちに向かって銃をつきつけたり爆弾を落としたり唯一のステンドグラスに傷をつけたりするようなレベルの低い人間の行為にさらされることはないだろう。

そして世界中の巡礼者や観光者に対していい影響を与え、全ての残虐な事にNoとだけ伝えるであろう。
全ての闇である暗らさは消え去るであろう。
そしてあなた方はVictor Hugoの パリのNOTRE DAMEやディズニーアニメーションのノートルダムを楽しめるだろう。

UNESCO ユネスコ本部

ここパリのユネスコの本部には、イサム・ノグチ(日系アメリカ人)の作った、人間の美と神聖なるものの美の調和した素晴らしい場所がある。


そこは「ジャルダン・デ・ラ・ペ(平和の花園、通称『日本庭園』)」と呼ばれ、日本の伝統的庭園のあらゆる要素が盛り込まれている。五行(地水火風空)。目に眩しい緑。岩、石、木、茂み、小川、池、滝。木のベンチや石のベンチに座れば静かに思索にふけることができ、小路を歩めば石灯籠、能舞台、そして野点スペースまでもが眼に入ってくる。
 
この庭園から受ける印象が独特なのは、平和へのメッセージが明確に表されていることだ。
 

一例をあげよう。庭園のなかで一番背の高い石には逆さ文字が刻まれ、水に反射すると金文(古代の漢字)の「和」に見えるため「和の滝」と呼ばれている。「和」は「調和」を意味し、ご存知のとおり聖徳太子の定めた十七条憲法のまさに最初の一文字であり(和を以て貴しと為す)、茶道に親しむみなさんはもちろんご存知の通り千利休が唱えた四規すなわち「和敬清寂」のひとつめの文字でもある。


もう一つ例をあげてみよう。この「平和の泉」のそばにはコンクリートの円筒状の建物がある。実は安藤忠雄が設計した且座のための場所なのだ。中は空洞になっており、床に使用されている御影石は1945年8月6日の広島原爆で被爆した原爆ドーム近くの橋のものなのである。さらさらと絶えず流れる水が、かつて死の光を浴びた石を今日も洗い清めている。



最後にもうひとつ例をあげよう。このジャルダン・デ・ラ・ぺとユネスコの本部ビルをつなぐ路のことだ。B-29のナガサキでの原爆投下目標は(キリスト教の)教会だった。その教会は長きにわたり隠れキリシタンの集う場所であり、明治時代になってご禁制が解かれてからようやく教会が建てられたのだ。今日教会を偲ばせるものは殆ど残っていない。かろうじて残されたものはフランス製のアンジェラスの鐘、焦げた彫像、壁のごく一部、そして(比較的状態の良い)天使の小さな彫像。日本の茶室の床の間を模したスペースがあり、その壁に天使の像が掛けられている。床の間の向かいには石のベンチが置かれ、天使を眺め、時には瞑想し、自らと静かに対話できるところとなっている。わたしたちはここで茶を点て、ユウコとパスカルと彼らの子どもたちが「四方へ広がる平和を祈念」し献茶をした。

この「日本庭園」に入ることは(いろいろな理由により……)それほど簡単ではない。実際わたしたちの場合は(諸般の障害があり……)大変に難しかった! 住所はフォントノア広場7番地。場所はエッフェル塔から南東に歩くこと約1キロメートル。最寄り駅は地下鉄のサン・フランソワ・グザヴィエ(聖フランシスコ・ザビエル)駅。
 
もしよろしければ聖徳庵ホームページの"KOSMOS"もどうかご覧頂ければと思う。