BERLIN WALL ベルリンの壁


解?

この言葉の意味する処は何なのだろう?ベルリンはBernauer Strasse(ベルナウ通り)にある和解教会は大切な質問を投げかけてくれている。

冷戦時代のほとんどの間、ベルリンを東と西に分けた、「無人地帯」もしくは「死の街路」(東西の壁を越えようとして命を落とした人は沢山いた)にこの教会は位置している。東西分裂のシンボルという特別な意義を持つこの教会は、和解と言う言葉を再考する時に焦点となってくれる。9月4日に"KOSMOS" (コスモス)はこの教会へ行く。

和解教会は一度は取り壊されたが、その前の時代からここで「平和の音色を四方に」鳴り渡らせていた鐘がある。WibkeとRebeccaと広美と私はその鐘が鳴り響く朝の10時に「平和の一碗を四方に」捧げる予定だ。その瞬間に何らかの形で私たちに参加して欲しい。災いに、飢饉に、戦争に深く悩まされている世界が和解へと導かれるように想いを捧げて欲しい。だが、私たちは問題を抱えたままだ。和解って、なに?きっといい考えのことなんだろうけど、それだけでは前に進めない。

低いレベルの人間がする復讐とは真逆の処にある、高いレベルの人間の活動のことだろうか?あるいは、私たちについて回る影のように、途絶えることのない修行として行うことは出来ること?習慣は作ることが出来るから、無くすことも出来る。心の創造力の扉を開くことができれば、心が持つ本来の美しさの扉も開けることが出来る。私たちが享受している文化や教育の罠に捉われなければ、心の奥底にある良心が、それは悲しいコトなんだって教えてくれる。グラスに浮かぶ氷が、溶けてお酒や水に溶け込んで行くように、復讐せねばという思いは溶けていって、私と貴方はそんなに違わないんだって分かっていく。非難する想いの土台が崩れるから。復讐なんて無力だから。キライと思うコトから解放されたゆったりと開けた心の中で、期待したり恐れたりするコトからも解放されて、和解を知る。これは私にとって良いとか悪いとか、知ったことじゃない。これは罪だとかこれは非難されるべきだとか、そんなコト考えること自体もう時代遅れって気付くこと、それを一刻一刻と重ねてゆくことこそ修行なのだ。そうやって英知へとたどり着く。例えば勇敢な心。例えば厳しき良心。例えば身を投じること。

自分の心を鏡に写せば、この個人的かつ環境的な崩壊の一端を私たちは担っているのだと否応なく分かる。

自分の心を鏡に写せば、良いことに寄与している自分に気付く。例えば、花を正面向けて活ける。こうやって、内を観る事と外を観る事を繰り返す事こそが日々達成される和解であって、それが修行となる。こうやって過ごしていれば、世に溢れる全てのドラマの一員になることだって、そのドラマに何か意味を付け加えることだって、とってもカンタンに出来るのだ。